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新編ギルガメッシュ叙事詩編 第1章 ビジリア 第3節 エンキドゥ誕生

宵闇の草原、見上げれば真昼の蒼天…――。

時間と空間のはざまに広がる、ここは大地の女神アルルの神域である。

誰もいないその世界で、アルルはその両手をゆらりと天に伸ばした。指先に届く陽光は、足元には決してたどり着かない。

その暗がりの草原に、汚れた粘土板がどろりと横たわっていた。アルルは静かに唇を開いた。

『真珠の陰りより生まれしものよ、
双対の魂を合わせ持つものよ。

汝の真なる力を目覚めさせよ。
無限なる深淵より今ここに、一時の顕現を…――! 』

閉じられていた瞳が、すっと足元を見下ろす。ベールから垣間見えたのは空をうつした色の瞳だ。

『召喚・エンキドゥ、』

どろり、と。アルルのてのひらから産まれたかのように、そこには淡く鈍い光を放つ土塊が溢れでた。詠唱を終えたアルルはその粘土を足元の石板に描かれた魔法陣の、その中央へとゆっくり落とした。

ぼた、ぼた、と重い音をさせたその土くれは、粘土板に溶け込むように広がった。と、その直後、粘土に板刻まれた魔法陣が仄白い光を放った。それは次第にまばゆく輪郭を膨らませ、そして小刻みに振動し始めた。粘土板“だったもの”はぼこぼこと盛り上がり、あるいは液体のようにうねり、沸騰する水面のようにごぼりと膨張したかと思うと、盛り上がったその土はいよいよ疑いもない「ヒト」の形を取った。

【呼ばれた名】に共鳴したように、やがてそれは光の中にもはっきりとわかる輪郭を持ち、光が消えるころにはそこに一人の少女が横たわっていた。

エンキドゥ召喚

女神アルルが苦心して練り上げた術式は、見事に成功し、かの王に抗いうる狂戦士を呼び起こした。

…はずだった。

「は?」

現れた少女のいでたちを目の前にして、アルルは思わず間抜けな声を上げた。

人間の力を超えた、異界の獣人を呼び起こしたはずだったのだ。獣の爪、人の知性。唸る声に鋼鉄を砕く牙と…。

かたや目の前の少女の手は、手の甲から肘までを覆うのはふさふさの愛らしい毛並み。人間の手指にあたる場所には鋭い爪に見えなくもない…猫の手。丈の短い人間の着物と相反するような、膝上まである虎模様。防御力の低さが尋常ではない。

そして横たわる頭には本物なのか偽物なのかそこだけやけに精巧な……猫耳。

目の前に召喚してしまったのは、子猫のようにか弱そうな、猫耳コスプレ少女だった。

「……」

今度こそアルルは音のひとつも発さず、呆然とその生き物を見下ろしていた。あえて野暮な補足をするならば、この世界にコスプレという概念はない。ただただ、想定していた獣人とはかけ離れた、耳の生えた力なきものの登場にアルルは神が天地全能であるなどというのは誠に人間の思い描いたユートピアでしかないのだなとここ数日の検証の日々を振り返って一時虚無の中を放浪した。

ガハッ、と。そんな静寂をやぶったのは、少女の口から出るには鈍い苦しげな音だった。水中から引き上げられたかのような粗い息が漏れ、それからスーッと空気を吸い込んだ。息を吹き返すように呼吸を始めた少女は、徐々に意識を取り戻したのか、緩いまばたきを繰り返した。

ようやくその目の焦点があったのだろうか、起き上がろうとした少女は一度その腕で体を支えられずに倒れたが、それから、ゆっくりとあたりを見回した。何が起こったのか分からず、混乱した様子で眉をひそめた。

アルルは依然としてその様子をじっと見下ろしている。その姿を認め、びくりと体をはねさせた少女は、間もなく異変を悟ったのか、恐怖のあまり歯の根が合わないほど震え始め、まだうまく力の入らない体を引きずるように、這うように、淡く模様の残る魔法陣の外に逃げようとする。

女神アルルは、その細く長い指で少女の顔を鷲掴みして地面に押さえつけた。う、と呻く声など聞こえなかったかのように少女を見下ろしたまま、その手から忘却の術式を放った。

術式の結果がどうであれ、これを正解にせねばならぬのだ。

「汝の記憶よ、深淵の闇へ落ち、二度と還らぬ眠りにつけ。忘却せよ……、忘却せよ――、」

少女は必死に暴れた。抵抗しなければならないと、本能的に理解していた。

「お父さんっ、…お母さん!」

父さん?母さん?それは誰だったか?

誰の顔も浮かばないのに言葉は勝手にあふれ出し、しかしその叫びすらも術式の光の中に吸い込まれていった。しばらくして、少女の手足から力は抜け、夢でも見ているような表情になり、深い眠りに落ちていった。

「……忘却せよ」

最後に再び式を重ね、アルルは先ほどまで荒々しくつかんでいた少女の頬を今度はいたわるようにそっと撫でて、拘束を解いた。

体を引きずり乱れた姿勢をまた仰向けに寝かせて整える。

さて、繰り返すが、アルルはこの状況をアヌの神勅のもと「正しい成果」にする必要があった。万一に備えてとアヌから賜っていた加護の詠唱呪文が刻まれた小さめの粘土板(タブレット)を左手に取り、その呪文を指でなぞった。刻まれていた呪は2つに分かれ、分かれた一つがさらに2つに分かれた。3つのうち2つの呪をゆっくりと指でなぞり、それぞれの一部をアルルは書き換えた。

そして懐から真珠のように輝く小さな玉を取り出し、手を差し出して少女の体の真上にそっと浮かせた。先ほど書き換えた呪文を詠唱しながら、粘土板タブレットの文字を指先で掬い取り、勢いよく中空に放った。その文字は帯状に空を舞い、回転する大きな真珠玉に沿うように吸い込まれ、回転の渦に巻き取られるように真珠の表面に小さく刻まれるや、瞬く間に消えていった。

すると真珠は光を増していき、ゆっくりと宙空をおり、そのまま少女の体の中央にとぷんと潜り込んでいった。

すると、泣き止んだばかりの赤子のようだった顔は赤みがひき、暴れた時に体や衣服にできた擦り傷は瞬く間に消えていった。

その変化が落ち着くのを見届けてから、アルルは、眠る少女を抱きかかえ、自らが魔法陣の内側に入り、杉の森近くの原野に瞬間転移した。

大きな洞窟の中に葦で作られたベッドを魔法で整え、そこに少女を寝かせた。

そして、お前の名前はエンキドゥ、と囁いた。

「ギルガメッシュ王と戦い、悪行を止めさせる使命を与える」

そこは泉のほとりでもあり、多くの野生の動物が水飲み場として集う場所でもあった。

アルルは、粘土で作られた仮面を着けると、その姿は徐々に透明になり、やがて姿を人には見えぬように空気に溶け込ませた。

少女がひおり目を覚ますのは、まだ少し先。昼夜のない神域を抜け、人間と動物たちの世界は、間もなく夜明けの頃だった。

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