第10節 ウルクの遊覧 前編~sightseeing in uruk:新編ギルガメッシュ叙事詩 第1章 ビジリア 

第10節 ウルクの遊覧 前編

翌朝、イルドとエンキドゥは、ひときわ立派なロバ車に乗ってウルクに向かって出発した。昨日の夜の別れ際の様子などどちらも気にしていないようだったし、実際イルドはその聡明そうめいさゆえ、エンキドゥはそののびのびとした性質故ほとんど気に留めていなかった。

「ウルクの街は、あなたには見ごたえがあると思いますよ。楽しみにしていてください」

「うん、みんなからたくさん話を聞いたけど、実際見たらきっと、」

きっと、の続きを遮るようにロバ車の窓に薄く垂れていたカーテンが風にあおられた。砂煙が入ってくるかと目をすがめたが、いつの間にか荒野こうやを抜けていたのか、風は透明だった。風の吹きこんできたその先、まだ遠い赤茶けた大地と。

「あれが城塞都市じょうさいとし、ウルクです」

高くそびえ立つウルクの城壁じょうへきに、エンキドゥはもともと大きい口をはく、とあけてしばし息を止めた。

城壁は10キロ以上にも及ぶ。その姿が徐々に大きくなっていき、エンキドゥはロバ車から身を乗り出して眺めた。

「すごいね」

「ウルクの都市は、外敵からの侵略を防ぐため、城壁で囲われているのです。城塞都市ウルクは、神々と人間の生命と財産を守っているのですよ。さぁ、まもなく橋です。それを超えれば、あの壁の内側です」

城塞の入口にかかる橋をガタゴトと渡り、門に入ったすぐのところの広場につくと、ムシャハトその人が出迎えにきていた。と、言ってもエンキドゥにとっては知らぬ人間である。

「イルド、あれ、案内の人?」

「そうですが、我々のボスですね」

「はわ」

エンキドゥは一応人の上下関係の知識があったようで、慰め程度に背筋を伸ばしておいた。ガタン、とロバ車の車輪が固定されると同時に、扉が開いた。

「エンキドゥ様 ようこそウルクにお越し下さいました。私はムシャハトと申します。あなたをお迎えにあがった…、ものたちと、共に働いているものです。お見知りおきくださいませ」

「え、うん!よろしく。エンキドゥです。…もう名前知ってるみたいだけど」

「ええ。ですが、まだお名前しか存じ上げません。いかがでしょう、早速ではありますが、このウルクの街をご案内させていただけますでしょうか。ぜひゆるりとお話ができれば嬉しいのです」

ムシャハトは人好きのする笑みを浮かべ、淑女しゅくじょにそうするように手のひらを差し出した。ムシャハトは神殿男娼グループ『ムシャハト』の、文字通り名にして責任者であり、アヌンナキの神の眷属けんぞくでもある。これまで迎えに来た男たちと似たような雰囲気はあったけれど、それよりもずっと親しみやすく、それよりもずっと高貴に感じた。エンキドゥはそれをうまく言葉にはできなかったが、差し出された手を拒むような性格でもなく、おずおずと指先を重ねて、それからぶんぶんと握手した。エスコートされるという発想はないようだった。

「ふふ。長旅でお疲れのところを急かしてしまいすみません。お会いできるのが楽しみでして。この街では、しばらくは私の家に滞在していただくことになります。先ずは荷物を運びましょうか」

「うん」

エンキドゥの荷物といっても、それは小さな麻袋の手荷物だけではあった。いつの間にかイルドと席を入れ替えてロバ車にはムシャハトが並び座り、案内されるままに城壁の中心部にある神殿近くの、ムシャハトの邸宅に向かった。エンキドゥは邸宅のメイドから二階の客室に案内されたあと、浴室に通され着替えを受け取った。

「埃を流した後は、夕食どきにお呼びしますのでそれまで、お部屋でお休みください」

ひとりで使うにはあまりに広々した浴場の隅っこで体を流し、何やらいいにおいのする湯で入浴を済ませたあと、ようやく人心地ついた。部屋に戻り、窓の外を見ると、そこには日干ひぼ煉瓦れんがの街並みが遠くまで広がっていた。どうやらムシャハトの家は城壁の中心部の小高い丘の上にあるようだ。ロバ車で運ばれている間に道がわからなくなっていたが、その光景をしばらく眺めながら、気づけばうとうとと、しばしの眠りについた。

ウルクでは、明るい時間に夕食を済ませる文化がある。まだ日が高い時間からいいにおいがしてきて、招かれたダイニングの前にはムシャハトが立っていた。

「さあ、こちらへどうぞ。…よく休めたようですね。シュメールの衣装がってもよくお似合いです」

「そ、そうかな、ありがと…」

自然に手を取られ、ゆるりと腰に手が回され、テーブルへと導かれる。ムシャハトも向かいに腰かけ、麦酒ばくしゅが注がれたゴブレットを持ち上げた。

「ようこそ、ウルクへ。あなたを歓迎します」

乾杯、と、かるく麦酒の器を合わせる仕草をする。エンキドゥは、その仕草を控えめに真似た。

「お招きいただき、ありがとうございます。ただ、」

エンキドゥはくぴ、と麦酒を少し口に含んでから、言葉を選びながら尋ねた。

「色々教えてもらったり、初対面の私をこんなに歓迎してくれるので、少し驚いて…どうしてなのかな?…と思うのです…」

エンキドゥが話し終わるまでじっと待ってから、ムシャハトはにこりと微笑んだ。

「あなたのような美しい女性が、すぎの森で野生の動物のように生きるのはあまりに勿体もったいないと思ったのです。魂にふさわしい衣装をまとい、温かく美味しい料理を食べ、屋根のある家のベッドで眠る。『人としての生き方』がふさわしいと、そう思い、勝手を承知でお招きいたしました。…望まぬことをしてしまいましたでしょうか」

「いえ!…いえ、ありがとうございます」

ムシャハトが困ったように笑ったので、それこそ美しいムシャハトが悲しげにさせてしまうのはふさわしくないように思えて、エンキドゥはすぐに否定した。彼女自身も自覚はないが、奔放で自由に生きていたエンキドゥは、すでに十分「ヒト」にように心を感じるようになり始めていた。

「良かった。明日また、ウルクの街をご案内します。手前味噌ですが、活気のある良い街だと思います。ウルクの人々の生活ぶりを直接ご覧になってください。…さあさあ!せっかくの食事が冷めてしまいます」

運ばれてきた食事を促しながら、ムシャハトはエンキドゥの興味関心を探りながら、ウルクの生活ついて説明していった。まずはここに住むすべての者たちのこと。ウルクの町では、アヌンナキの上位の神々、下位の神イギギ、王族、神官、高位市民。それから兵士、平民、最下級にあたる被支配階層と身分みぶんが細分化しており、それぞれが活動できる区域が決まっている。そして、より高い身分の区域に足を踏み入れることは暗黙の了解で禁止となっていること。

ムシャハトが明日案内してくれるのは、一般市民の立ち入りが許される神と人の交流スペースであるそうだ。それはウルク中央近くにある神殿と王邸を囲むように区分けされていて、様々な娯楽施設が揃っているのだという。レストランや服飾店、演劇や音楽を楽しむ演劇場や美術館に闘技場とうぎじょう。入浴施設、図書館などと、おおよそ文化的な生活を営む上で望ましい施設が揃っているといってもいい。

また、教育施設も整備されており、読み書きや算術などを市民は学ぶが、ここには神々は足を踏み入れることはないのだそうだ。知恵や知識の習得の仕方が異なるのだと説明を受けたが、これについてはエンキドゥはいまいちピンとこず、生返事を返した。

「交流スペースの外側にも人の暮らす区域はあります。が、そのあたりは治安が悪いので立ち入らないほうが良いでしょう。一人で出歩かせるようなことはないとは思いますが、お知り置きくださいね」

エンキドゥは、自分にはなじみのない「身分」という制度に不安を覚えながらも、高度な社会生活基盤を備えたウルクの街を楽しみに感じた。

一方。優雅に、耳障り良く、とつとつとうたうように語るムシャハトであったが、彼はエンキドゥの様子を観察かんさつしていた。
(世間を知らぬ、ただ純粋で無知で、無垢な少女にしか見えない)
(が、この少女こそが神アヌが遣わせた『最終兵器』なのだとして…、ギルガメッシュ王に何ができるというのだ…?役目を隠して俺の目をたばかろうとしているとしたら…とんだ名女優というしかないな、)

実体のない「敵」の姿を靄の中で探すようで、疑問が解けないこと不快感が喉に詰まった。もちろん、そんなそぶりを表に出さない、こちらも名男優であるからして、彼はこの街最大の男娼館のトップなのだ。

(明日、見極めるか)

同時刻、ムシャハトからギルガメッシュ王に、エンキドゥのウルク到着の報告書が届いていた。エンキドゥについて、綴られていた思いのほかに「慎重」なムシャハトの態度に、ギルガメッシュはいよいよ面白くなって、珍しく文を1度読み返した。

権力や支配欲、色欲などで篭絡ろうらくさせることは、現段階では難しいこと。

華奢な体格に温和な性格、一風変わった衣装をまとっていたこと。

そして、その無防備で無作為な振る舞いから、神アヌの意図が全く読み取れぬため、しばらく様子を見たい旨が記されていた。
(このような珍客もそうそうおるまいて)

「よし、ウタナよ。歓迎の宴席を設けようではないか」

「今の報告でどうしてそうなるのですか???」

本当に読みましたか?と怪訝そうな視線を切り捨てて、王は楽し気に歯を見せて笑った。

「神アヌの遣わした客なのだから歓迎して当然。それに、会えばすべてわかる、だろう?」

ウタナの長いため息が王室の天井に響いて散った。

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