第9節 ウルクへの旅路(Day3)
◆Day3
翌朝、エンキドゥは案の定日が十分高くなった頃に目を覚ました。まだ気分が悪かったが、昨夜何かよくわからないままに迷惑をかけた記憶はあったので、天幕から這い出たところにいたカーシに、まずぺこりと頭を下げた。
「おはようござ…うぅ…」
「ご無理なく。おはようございます。まだ体がつらいかとは思いますが、朝食にレンズ豆の麦リゾットをご用意しました。少しでもお食べ下さい」
介護されるように簡易のテーブルに連れられた。湯気はいいにおいがして、それが胸につかえることもなかったので、エンキドゥはいつもの5倍はゆっくり、そのリゾットを口に運んだ。二日酔いでも飲み込みやすいものを準備してくれていたということまではわかってはいないが、食べ終わってもう一度、今度はちゃんとありがとうとカーシに伝えた。
どうやら、既にウルクに向けた出発の準備は整っているようだった。
できるだけ揺れないようにと無理な指示を部下に出したカーシとともにロバ車に乗り、エンキドゥは昨日のことを思い返していた。
食べたものを全部吐き出してしまったことを思い出すと顔が紅潮し、やたら胸をかきむしって隠れたくなるような感情を覚えた。初めて羞恥心というものを感じた。
あと、たぶんベッドで横になっているときに、下衣をこえて胸に手を伸ばされたような気がするのだが、何がしたかったのかよくわからないし、記憶もあやふやだったので、それについては聞く必要もないか、とそのままにしたが、それもまた胸の内側がもよよ…として、「ふつかよい」は大変だな…とエンキドゥはまた馬車の中で少し眠った。
ウルクの近くに来ると、ぽつぽつと人工の建造物が現れ始めた。
マリンブルーの泉の周りには椰子が生い茂り、レンガ造りの構造物とのコントラストが美しい。
「今日はあの建物に宿泊することになります」
ロバ車は敷石で舗装された道路をガラガラと音を立てながら、宿泊施設の玄関の前まで進んでいった。この宿泊施設は神々だけが利用できる慰安用の宿泊施設だった。
到着を知っていたかのように、門外にいた女中らしきものが数人カーシたちを出迎えた。
「いらっしゃいませ」
と、深々とお辞儀をしてから二人を乗せる馬車の後者口の左右に控えるように並び立った。
カーシは、エンキドゥを施設の中に案内する。何度かここを訪ねたことがあるのだろう。エントランスの壁には、装飾されたレンガやオブシェが飾られ、大きな窓からは太陽光が差し込み比較的明るい。
一通りエントランスにあたる場所を案内して入り口付近に戻ると、そこには一人の男性が立っていた。
「ようこそいらっしゃいました。長旅でお疲れになったでしょう」
この男性こそが、神殿男娼ムシャハトのエース「イルド」である。
洗練された肉体は、服の上からでも十分にわかるほど、無駄な肉はなく引き締まっていた。腕には黄金のバングル、金と宝石で装飾された首飾り。どれを取って超が付く高価なものであることは一目見てわかる。(もちろんエンキドゥはよくわかっていないので、普通の人間であれば、の話である)
その男から発するオーラのようなものすら、先の二人の男娼とは格が違った。
イルドは、ちらりとカーシを一瞥すると、全てを理解した風に「お疲れさま」というふうに小さく首を傾げた。カーシは軽くお辞儀を返したあと、エンキドゥに向き直って膝をつく深い礼をした。
「私の務めはここまでです。お会いできて良かったです。」
それから、立ち上がるともう別れの未練などないかのように、すっと踵を返して颯爽とエントランスの出口に向かった。
別れ際、終止カーシが伏目がちだったから、エンキドゥは話しかけるタイミングを失った。というよりは、その隙を見せられなかった。
「ありがとう…」
と呟いたエンキドゥの小さな声は、彼には届かなかった。
カーシは、ガラガラと音を立てながら進むロバ車から外を眺めながらため息をつき、男娼失格だな…とぽつりとこぼすが、対面に座るもののいなくなったその幌の中で、言葉を拾ったものは誰もいなかった。
◆
イルドはがまず提案してきたのは入浴だった。
「長旅の疲れも溜まっていることでしょう。埃を流し夕食の準備ができるまでくつろいではいかがでしょうか?」
と、おだやかに、しかしテキパキと告げて、その柔らかい圧に言われるがままエンキドゥが頷くのを見て、従者に指示し浴場に案内させた。
エンキドゥは、指示に従うまま、垢すり、ヘッドスパ、足つぼ、全身オイルマッサージまで、入浴に付随するフルサービスを受けた。なんだか心地よかったのは間違いないが、気が付けば全身いいにおいでつやつやぴかぴかになっていた。
森から連れ出されてからこちら「気が付いたらなんだかいい感じになっていた」ということばかりで、エンキドゥのなけなしの自立心がこれでいいのだろうかとは訴えていたが、それ以上の快適さにまぁいいやとその懸念を隣に投げ捨てた。
浴場を出た後は、備え付けの浴衣に着替え、宴会場に向かう。
宴会場では、イルドとエンキドゥの席と、その眼前には、豪華な食事と美酒が用意されていた。
「エンキドゥさま、よくぞお越しくださいました。ささやかではございますが、宴を楽しんでください」
席の対面に誂えられた舞台では、音楽に合わせ、歌い、踊りが披露された。
エンキドゥは、これまで案内してくれた男娼たちから教わった衣服や食事の作法を守り、粗相なく食事をしながら、初めて見る舞踊に見とれていた。
地元でとれた新鮮な野菜や肉、魚料料理を飽きるまで食べ、麦酒を飲み、とても幸せな気分になった。
にこにこと、彼女が十分この場を楽しみもともと薄い他人に対する警戒心がほとんどなくなったことを確認してから、イルドは、エンキドゥにしか聞こえないように話しかける。
「あなたは可愛らしい」
「え、なに。ちょっと恥ずかしいよ。どうしたんですか。イルドさん」
「イルドとお呼びください」
「私のことはエンキドゥでいいよ」
では、と互いを名で呼び合い、エンキドゥはそわそわとした気持ちになった。
「料理も飲み物もとても美味しくて、なんて素敵な時間なんだろ」
照れ隠しのようにえへへ、とそう笑う。実際、初めて見る歌や踊りにエンキドゥは心がワクワクして気持ちが満たされていたのだ。
「神のように美しいエンキドゥ、貴女が私と契りを交わすなら、毎晩のように美味しい食事とお酒を用意しましょう」
イルドは琥珀色の瞳でじっと小さなエンキドゥのことを見つめた。手や体には触れられなかった。
エンキドゥはしばらく考えてから、こう答えた。
「ありがとう。私は、レンズ豆のスープとパン、たまに麦酒を飲むだけで十分に幸せです」
◆
その後、エンキドゥは、食事を十分に味わい楽しみ、満足げな表情でくつろいでいた。
「さあ、こちらにおいでください」
のだが、このイルドの言葉で、従者がゆっくりとではあるが、一斉にエンキドゥを取り囲んだ。
「ええ、何なに!?」
また、あっと言う間に、浴衣から綺麗な衣装に着せ替えられた。
「素敵な人には綺麗な衣装が良く似合います」
と、イルドは胸元についた鎖の長い金細工の装飾をそっと掬い取り、そこに軽く唇を落とした。そしてさらに、金や銀、宝石の首飾りやバングルなど沢山のアクセサリーをエンキドゥの前に並べた。
「お好きなものをお選びください」
「…どれが似合うかわからないよ」
「たくさんありますからね。…では、これなんてどうでしょう」
イルドはいくつかのアクセサリーを見繕い、髪飾り、バングル、首飾りを彼女につけさせる。
「やはり、貴女にこそふさわしい。イルドラズリのマリンブルーも金も、貴女によってその輝きが増すというものです」
そして「もし、貴女が私と契りを交わすなら、ここにある全ての金銀宝石装飾品の全ては貴女のものです」と、イルドは、二度目の誘惑を彼女の耳元に吹き込んだ。
エンキドゥは再度考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「私には、山や野原を駆け巡る衣服と靴が必要なだけで、こんな貴重なものは、私には使う機会がないので勿体ないです」
◆
宴も終わり、イルドは最上階にある特別な部屋の前の広間に彼女を案内した。
そこは吹き抜けになっており、広間を囲う手すりから下を眺めると、建物1階のエントランスが見えた。
イルドはそこで初めて、ゆっくりとエンキドゥの手を取った。
「貴女が私と契りを交わすなら、すべての従者に、あなたの身の回りの世話の全てをさせることができます」
これには、エンキドゥはすぐに否定を返した。
「私の身の回りの世話をさせるだなんて、とんでもないです!」
そもそも、エンキドゥは、生きるための食欲を除けば大概のことに無欲なのだ。
否定されたイルドは、しかし彼女の言葉に優しく笑顔を返した。それはあたかも彼女の答えなど予想されていたかのように。
掬い上げられていた手が、そっと離された。そして、幼子にするように、しかし無礼にならないぎりぎりのラインで、エンキドゥの首元に伸びた髪のすそを優しく指先で撫でた。
「……貴女は素敵な人だ。神は貴女を愛してやまないでしょう」
広間の奥の寝室に案内し、これまでの流れでイルドも部屋に入ってくるのかとエンキドゥは待っていたが、その敷居を超えてくることはせず、イルドはこれ以上ない優美な所作で礼をした。
「明日はウルクに到着予定です。ゆっくりお休みください」
ぱたん、と、実際はそんな音すらさせず、ドアが閉まった。
あまりに美しく去ったものだから、部屋の調度品の扱いや、シャワールームの使い方でわからないことはあったけれど、彼をもう一度ここに呼び戻そうとは思えなかった。
柔らかすぎるベッドに埋もれて、すぐそばで眠られるよりもずっと、そこにいない相手のことを考えて、いつもならすぐに寝落ちるエンキドゥが、その晩少しだけ夜更かしをした。