朧げな 視界の中で、必死に何かを訴えている人影が見えた。声は聞こえない。涙を流した、悲愴な 表情だけが、 靄がかっているのになぜかはっきり伝わった。「誰か」は、わからない。嘆きだけが鮮明だった。
途端、 視界が白い光で 覆われ、一瞬にして奈落に 転落するような感覚に 陥る。
ガバッ!と、実際そんな音をさせて、 覚醒と共にベッドの上で跳ね起きた。全身に力が入っていて、汗をびっしょりとかいていた。7月下旬という、熱気のせいだけではない。
「はぁ、はぁ…」夢と現実の 境界を理解するまでに数秒あらく息を吐く。
(また、あの夢、)
そうして 境界をこちら側に 超えてしまえば、今度は悲しく切ない感情だけがわけもわからずこみ上ってきて、「私」はしばらく身動きがとれなくなってしまった。
「いつまで寝てるの~?」
呑気にも思える母の声が、1階から届いたことで、 硬直は 解けた。机の時計をチラリと見る。9時15分。いつもなら学校で授業を受けている時間帯だが、今日は土曜日、昨夜は遅くまで趣味のイラストを描いていたので、いつもより起きるのが遅くなった。
「今行くところ!」と下階に届くように答え、そそくさとベッドから降り、汗だらけのスウェットを脱いでTシャツに着替える。何もしていないのに、どっと 疲れていた。
「夜遅かったの?また、絵 描いてたんでしょ、もう…お父さんからも注意してよ」
「別にいいんじゃないか?」
すでに朝食を食べ終えていた父は、居間のソファでコーヒーを飲んでくつろいでいた。
「やる気があるのはいいことだよ」
母親の 視線が 逸れているタイミングで、父がちらっと目くばせをしてきた。
「今日もまたいつもの夢を見たんだよね…。何なんだろ?」
「 凜華は漫画の読み過ぎ!」
「お父さんに聞いたの!」
「もう!」という顔をおおげさに作って、 反抗期をアピールしておく。女親と女子高生の相性なんて悪くてなんぼなのである。もちろん、準備してある遅い朝食はありがたくいただくのだけれど…。
「ところで、今日は11時にバイトの面接に行くんじゃないの?」
「そうだけど」
「11時よね?」
そうだけど?とさらに繰り返そうとして、念のため時計を見る。
既に10時を過ぎていた。
「やば!」
朝食をとにかく口に入れ、最悪スマホと 履歴書があればいいや!と半ばあきらめながらの荷造りをして、とにかく眉毛だけかいて、とドタバタで面接の準備を始めた。
わき腹が痛くなるの 覚悟で慌てて自転車に乗り、面接先のビルまでの道へペダルを踏んだ。
「…大丈夫なのかしらねぇ」
「大丈夫じゃないだろうなぁ。義姉も 迷惑だろうな」
「時間にルーズなのは、せめて社会に出るまでになんとかなるといいんだけど…おっちょこちょいも直してほしいし…」
父親は、(娘のことを言えるか?)という言葉をぐっと飲みこんで、父親らしくはははと笑った。
母とは、別に仲が悪いというわけではない。母が、娘に対してだけは思ったことをそのまま言ってしまうから、口げんかになりやすいというだけだ。絵が好きでイラストの 描けるアルバイトを探していた娘に、バイト先を紹介したのも母親だった。
母の姉の夫が運営する会社だということは、娘は気づかなかったので、そのまま内緒にしている。アルバイト先は、自転車で30分くらいのところで、なんとか5分前に事務所に到着した。さっきせっかく着替えたのに蒸し暑い中を 爆走したことでもはやまた汗をかいていたが、どうしようもない。室内の 空調が効いていることを祈るばかりだ。
ビルの1階は 駐車場だった。2階に事務所があったが、見た感じ 受付に人はいなかった。これで呼び出してね、といったような電話機が置かれていたが、ちゃんとした企業の門など当然くぐったこともないので、本当にそれ用かわからず、小声であの~と呼んでみたり、受話器を持ち上げては降ろしたり 貴重な時間を無駄にした。
ようやく、 受付にインターフォンのようなものがることを見つけ、それを押す…前に、もう一度スマホで階を確認して、会社の名前を確認してから、今度こそ意を決してボタンを押した。
「天音 凜華です。採用面接に来ました」
「いらっしゃいませ。そちらで少しお待ちください」
はい、か細く答えるよりも早く、すぐに隣のドアがガチャリとあいて、20代くらいの男性がひょこりと頭を出した。
「いらっしゃい。話はうかがってます。こちらへどうぞ」
事務所には、向かい合うようにワークスペースの机が並べられており、壁際には商品が入った段ボールが積まれていた。壁面のホワイトボードの近くの机に、もう一人男性が座っていた。こちらは40代前後だろうか。
「はじめまして。ディレクターの 安西です」
凜華はディレクターの仕事が何かはわからなかったが、出迎えてくれた人よりは偉い人だろうと、先ほどより深めに礼をした。
「おかけください。課題のイラストはお持ちですか?」
「はい、えっと、」
これだけは急いでも丁寧にカバンに入れたはずである。封筒ごと取り出し、その中のイラストを手渡す。安西はイラストをすっと 眺める。まじまじと初対面の人に絵を見られる 機会などそうそうなかったので、凜華はこの時間をどうすればいいのかわからず、とりあえずあまりきょろきょろしないように、机の向かいのノートパソコンをぼやっと眺めていた。
若いほうの男性もパソコンを挟むように安西の横に腰かける。2対1のいかにもな面接の形になり、よし、と気合をいれたところで、背中を向けていたノートパソコンがくるりとこちらを向いた。
どうやら画面の向こうにもう一人いる。3対1で学生のバイトの面接をするなんて友人や先輩からは聞いたこともないのだけれど…。
「改めて、私はディレクターの 安西です。こちらがWEB担当の高橋です。それから、今日は社長が遠方にいるので、オンラインで面接をさせていただきますね」
社長…!!!!
凜華にさらなる緊張が走ったところで、オンライン先の男性がにこりと笑ってしゃべりだした。
「私が社長の松本です」
カメラが遠いのか、姿は少し小さく感じる。
「はじめまして。天音凜華です、よろしくお願いします」
「今日は 出張なのでオンラインでの面接で失礼しますね。こちらの声は聞こえますか?」
「はい。聞こえます!」
無駄に大きな声が出た。
「では、よろしくお願いします。うちの会社は、健康グッズの企画・製造・販売を行う会社です。今回の募集 要項には、SNS広告に興味のある方ということで募集していました。少し特殊な募集ですが、仕事の イメージなどはずれていませんか?」
「はい。私は漫画とかイラストを書いたり、小説を読んだりするのが趣味なので、自分自身でもイラストとか、SNSで公開したりしています」
準備してきた台詞と、適当な繋ぎ言葉とで頭はいっぱいだったが、元来しゃべることは好きなので、なんとかなってる、ような気がする。
「さすが。若い人はSNSについては私たちよりも詳しいでしょうしね。先にご提出いただいたイラスト、拝見しました。色彩が凄く鮮やかで、とても上手ですね」
ありがとうございます!と、お世辞かもしれないが前向きな評価をもらえて、凜華はようやく少し肩の力が抜けた。
それから、 通勤時間はどれくらいかかるか、仕事ができる時間帯は、など、基本的な質問が続いた。夏休みの間にできるだけ 貯金もしたかったから、いくらか前のめりな回答になったが、悪くはない…ような気がする。
「ではSNSを使った広告担当として、一度やってみますか」
「えっ」
さらっと、面接結果のようなことを言われて、凜華はとぼけた声を出してしまった。
「こちらとしても学生さんとの取り組みはあまり経験がないので。…そうですね、まずは、安西ディレクターの 計画に沿って、高橋WEBデザイナーとSNS担当の天音さんという形で、販売 促進に取り組んでもらえれば」
「あの…、私に出来ることでしょうか…?」
販売促進、というのはたぶん、インスタグラマーとかがやっているああいうことなんだろうなとは思うけれど、自分は別に何万人のフォロワーがいるわけではない。
「はじめのうちは、安西ディレクターが作業内容を 指示しますのでそれに 従ってください。作業していてアイデアや意見があれば、誰でもいいのでどんどん伝えてください。若い人の 発想は 貴重なんでね、あまり構えず、大丈夫です」
具体的な大丈夫な理由はぴんとは来ていなかったが、採用されるというなら断る理由はない。
「わ、かりました…!」
「それじゃ採用します。あとで準備リストを受け取って後日必要な 提出物を届けてください。ああ、あと、うちは基本的に 在宅ワークだから、事務所でないとできない仕事の時だけ、通勤してくれればいいですよ。詳しい説明は、安西ディレクター、お願いしますね」
「はい」
「ありがとうございます!」
画面にむかってぺこ!とお辞儀をする。
「皆が揃っているので、続けて細かい計画について説明しますね」
採用が決まり、緊張から一転気合が入ってきた凜華は、ふんす!と前のめりになり、安西のことばに大きくうなずいた。今日いきなり仕事の話が始まるとは思っていなかったが、面接自体が思ったよりも早くすんだし、特にこの後も予定もない。
メモ帳などを持ってきていなかったので、筆箱を出した後に一瞬焦ったが、ちょうどそこで安西が計画書を配ってくれた。直接書き込めば何とかなりそうだ。
高橋は既に手元に資料があったのか、すでにぺらりと1枚先を眺めていた。
凜華は受け取った紙束の表紙目を落とした。
『販売計画書 コードネーム「BS(BlackSwan)」』
「これが、この 企画のタイトルです」
大人っぽい会議の 雰囲気に凜華は目を輝かせつつ、スワンってなんだっけ?と高校入試で一番悪かった英語の成績のことを頭の向こうに放り投げた。